2016/05/27

[韓国映画] 気まぐれな唇 (2002)

気まぐれな唇 (原題:生活の発見 생활의 발견
監督: ホン・サンス
出演: キム・サンギョン,チュ・サンミ,イェ・ジウォン
収録時間:115分
ホン・サンス監督が韓国の新人、キム・サンギョンを主演に、“男の本性と女の本音”を赤裸々に描き、大胆なベッドシーンも話題となった官能ラブストーリー。旅先でふたりの女性と恋に落ち愛に翻弄される主人公の男のユーモラスで哀愁に満ちた姿を描く。 ゲオレンタルより



すみません。
わたし、ホン・サンス監督の作品が好きではありません。

巨匠だとか言われてるから何本か見たんだけど、
どうレビューを書いていいのかまったくわからない。
いつも不快感しか残らない

どんなに冷静に考えても、
そもそもなんでこんな作品が生まれてくるのか。
その発想の根源が理解できない。

わたしみたいな芸術がわからない野蛮人ってこの手の監督さんの考えにはついていけないのよね。きっと。
下記にある監督インタビューを読んでもわからない。
(わからないのにレビュー書くなってか)

そもそもこういう映画を作って公に見せるって考えそのものに唖然とする。

それぐらい彼の映画に登場する人物に嫌悪感があるのだ。
彼の映画に登場する人物はみんな人生の負け犬

でもね、大した負け犬じゃないのよ。
彼らはみんなどこにでもいる市井の人。
なかなか就職できなかったり、女に相手にされなかったり、歩いてたら犬の糞ふんづけたり、上司に好かれなかったから昇進できなかったり。

そこらへんにいる、わたしたちが主人公なのよ。
でも、その主人公に共通する特徴が、神経的にちょっとおかしい。

自分の運の悪さを他人のだれかのせいにする。
酒を浴びるように飲み、卑猥な言葉を吐き、
うじうじしていて、女(男)をストーカーして追い回し、服を脱がしたがるセックス狂。
ああ、近寄っちゃいけない。

負け犬なら負け犬らしく、愚痴言いながらも、次の朝がくればまたひたむきに生きていこうって姿を見せればいいのに、それがない

自分の運勢が悪いのは、つねに誰かのせい。
この手の人間は、「朝が来るから悪いのだー」という、バカボンのパパ的発想までいく(赤塚不二夫先生、尊敬してます!)。

だから、こんな人間なんか見ていたくなんかない。

なんで私たちが映画を楽しむと思う?

1秒でもこの世の憂さから離れたいから、せっかくの休日に映画を見ているのに、
そこで、まさに自分が毎日出会っている薄汚れた人間どもを目の当たりにしなければならない苦痛。
ほんとうに言葉を失くくらいショックを受ける。

わたしはなにも自分が彼らよりマシだと言いたいんじゃないの。
それどころか、自分が一番糞だということぐらいわかっている。
自分の薄汚れた心のすみずみまで自分が一番わかっているからだ。

だから自分という糞野郎が関わっているこの糞世界から離れたくて映画というDream Landにほんの数時間溺れていたいのに、そんなささやかな望みを、このホン・サンス監督はひひひと笑いながらぶっ壊していく。甘えたことぬかしてんじゃねーよって声が聞こえる。

ホン・サンス監督自身はインタビューでこう語る。

世の中には幸せに暮らしている人たちがいます。
確かにいます。そんな人たちは、さておき、私はそうでない人たちを描きたいと思っています」

それはわかる。
それでないといい作品は書けないわよね。
でも、ホン・サンスさんの作品には「希望」が見えない。
その片鱗さえない。

だから、見た後、いつも落ち込む。
いやーな気持ちになる。
彼の作品を見る時は、身構えるか、避けるか、体調のいい日を選ぶか、もしくはうっかりして。

彼が対象にしている人が、お金もち貧乏人両方を含めている点は、すばらしいと思う。
だって、お金持ちにも不幸な人がいて、それをあぶりだすって気持ちがいいじゃない?

つまり、
「ああ、お金ないけど幸せだな」って感じられない貧乏人。
「金もってるけど、糞だなこの人生は」って不満をもっている金持ち。
「そこそこの生活してるけど、おれって糞不幸だな」って思っている中流階級。


監督は、どの階級の人間にもかならず「幸せ」を感じる「センサーが欠如」している人間どもがいることを知っていて、その不幸せな人間どもに共通して存在する「焦燥感や孤独感」を餌にむさぼる。

どんな貧乏でも、道端のたんぽぽを見て、
「わ!かわいいー。今日なんかいいことあるかも」って考えるポジティブ人間には、監督は一切興味を示さない。金持ちでも、「俺にはたくさんの金がある。よし。たくさん寄付をしよう」なんて人間、つまんないわよね。だって放っておいてもそんな人たちは幸せに生きていくんだから。

だから、目の前にある「しあわせ」に気づかない人間がこの世で一番不幸せで、まさに芸術の対象になる。監督の狙いは、王道なのよ。

インタビューの冒頭でも記者がこう書いている。

「彼が描いてきたものは、日常の倦怠感と不条理、そして、まともに見える人たちの、ねじれた心情だ。それらを浮き彫りにする窓は男と女、いや、雄と雌の性をめぐる関係とコミュニケーション、あるいは断絶だった」

うーむ。
やっぱりたまったもんじゃないホン・サンス作品は。

どうして彼の作品が芸術としての価値が高いのか?
わたしには理解できない。

だって、監督は、まともに見える人たちの、ねじれた心情を、ねじれたままその場に置いて行っちゃうから。
加えて、うざい、退屈、だます、だまされる、つまんない、憎らしい、殺してやる、くそったれといった人間が手にあますあらゆる感情の合間を埋める表現に、AVまがいの「セックス」をたくさん介在させる。食ってセックス、泣いてセックス、笑ってセックス、寝て起きてまたセックス。

わたしたちの頭がつまんない糞人間とセックスでいっぱいになった頃に、映画は終わる。
残されたのは、強烈なセックスシーンと溜息と、つまんない夕焼け。
夕焼けさえもつまんなく覚えさせるのはホン・サンス作品だけ。

でも、その手法は、わたしにはもてない男が公共の場でするマスターベーションにしか見えなくて、不快感だけが増す。なんの意味があるんだろうこの映画って。

わたしたち人間はこんなに糞なのか。
こんなに希望がないのか。
(そりゃそうだ。戦争と略奪と強姦ばっかりしてきたんだもの)

甘えたクズ人間だけが求めるものなのかしら「希望」って言葉は。
「気まぐれな唇」を見て、人生に意欲がわいてきたって人は、すごいと思う。
わたしこそ、そういう人になりたいのに。

ああ。ごめんなさいね。
文句ばっかで。

だれかがTwitter で言ってたっけ。
「素人が映画を語るな」って。
ふふふ。
ところであんただれよ?

語ってないわよ。
愛しているのよ。
あんたよりずっと深くね。







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