帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い
まだパラパラとしかまだ見ていませんが、わたしの予想を裏切ることがたくさん書かれていればいいなと、今からわくわくしています。
わたしなんかもアラフィフだけど、
戦争をまったく知らない世代。
戦争下では、ひどいことが起こるのだろうと想像することはできても、その痛みを思い知ることはできない。
ついつい、
「戦争なんだから加害者も被害者もないでしょうに」、
「自国の歴史をいいように解釈するのはお互いさま」、
などと、過去の戦争を簡単に片付けようとする癖がわたしたちにはある。とくに日本人には多いように感じる。
また、日本だけでなく韓国も歴史をいいように解釈して、隣国を責めてきた部分があるように思う。
韓国は、ほんとうに慰安婦と呼ばれている人たちから真実を聞き取ることができたのか?
自分たちの解釈を裏付けするものとしてこれを利用してこなかったか?
これはわたしの長年の疑問である。
わたしが望むのはただ一つ。
過去の歴史にたいする客観的な解釈 を身に付けられればと思う。
戦争の被害者・加害者という枠を超えて、
涙や慟哭なしに、過去の戦争をひとつひとつ解釈していける目をもちたい。
主観的な自我を究極な限度にまで排除して、客観的な目をもって歴史を見つめられればと思う。
かつて、「科学」という方法論は理数系の研究上にのみ存在するのではなく、歴史をはじめとする文科系事象のダイナミズムを動的にとらえる手段となりうるという可能性をわたしたちに示してくれたマックス・ウェーバー(Max Weber)。
たしかに、彼が残した壮大な試みのように、文化的事象の集積体のような「歴史」を科学的に分析し、その客観的解釈を一般化することは到底不可能のように思う。
しかし、だからといって、右や左の考えに迎合したり、無理に自分を納得させたり、
時代だからと少数者の意見を無視したり、
もっと最悪なのは、面倒くさいから考えないようにしようとしたりすることだけはしたくない。
つまり、主観という牢獄に囚われたくないのだ。
朴裕河教授が著した、この
慰安婦は性奴隷か売春婦か、強制連行か自発的か。
正直言って、この従来の極端論には辟易するものを感じすぎるほど感じてきた。
どちらも真実を伝えていないと直観すらする。
この主観一辺倒のままの思考を突破して、
普遍的で客観的な見方を、著者である朴教授が示してくれそうで、今からとても楽しみにしている。
どうか、わたしの頭にバズーカー砲を打ち込んでほしい。
日本と韓国、右と左。
どちらにも組みしない、どちらをも突破する「思考する力」を。

また読み終えた時に、レビューを書きたい。